【コラム】「音楽の都」に対する違和感(2)バッハの隣にテレサ・テン
初対面の挨拶をしたときに、わたしが「音楽学者」であると自己紹介すると、「あぁ、私はそちらの方面には疎くて…」などと、謙遜される方がおられます。
この場合、「そちらの方面」とは、たいていヨーロッパのクラシック音楽を念頭に置いているようです。
わたしの印象にすぎないのですが、比較的、社会的地位の高い方が、「そちらの方面は疎くて」の発言をされる気がします。
かみ砕いて言えば、「社会的に高い地位にある自分が、あの高尚なクラシック音楽について何も知らないのは、とても恥ずかしい」と、謙遜されるのでしょうか。
しかし、音楽=クラシック音楽ではありません。
「そちらの方面には疎くて」の方々は、クラシック音楽には疎くても、実はカラオケの〈時の流れに身をまかせ〉や〈天城越え〉なら、大好きだったりするのです。
しかし、「そちらの方面は疎くて」と謙遜するのは、演歌よりもクラシック音楽のほうが「優れている」と、素朴に信じているからでしょう。
そもそも、音楽に優劣はあるのでしょうか?
よく学生には、「パスタとお蕎麦、どっちが優れている?」と問いかけます。
もちろん、個人の好き嫌いはあるでしょう。しかし、「優れている/劣っている」などという問いは、全くナンセンスです。
芸術音楽と大衆音楽についても、個人の好き嫌いはあっても、優劣はないというのが、現代の多くの音楽研究者の常識的な見解です(もちろん、上手/下手の区別はあります)。
歴史を紐とけば、大正教養主義の頃から、エリートを中心に「クラシック音楽=優れた音楽」という観念が広まりました。しかし、現代は、グローバル社会、異なる価値観をもつ人々の多文化共生の時代です。
学校の音楽室の壁に「西洋」「白人男性」「富裕層ターゲット」の作曲家のポートレートばかりが掲げられることを「常識」とする社会は、居心地が良いでしょうか?
バッハの隣にテレサ・テンの肖像を、わたしは希望しています。
文:静岡文化芸術大学 教授 奥中康人